TOP
 矢野三山 
400ピクセル
  矢野小学校校歌に 「三つか山」   
絵下山  559.4   展望台休憩所 
 4等三角点
 
593.0   絵下頭 (えげがしら)
発喜山  476m    
明神山  502m  4等三角点

 「矢野三山」は、広島市安芸区矢野地区の南方にそびえる「絵下山」「発喜山」「明神山」のこと、矢野小学校の校歌には「三つか山」と表現されています。地域からは多くの登山者が訪れています。

 起伏に富む山谷、見事な眺望、四季折々の花、鳥や虫など豊かな自然は初心者から熟練者まで幅広く迎えてくれます。
 矢野地区は古代から開けた地域だったので絵下山麓には弥生遺跡、神武東征伝説ゆかりの神社、中世の山城跡などが多く残されています。
 
          (矢野三山たんけんマップ) 
 
 
 矢野側から見た 矢野三山        矢野中学校から撮影 ネットから)
 
  竜山(竜ノ口山)、 中野山、絵下頭、発喜山 (明神山は見えない…) そして広島市街    中倉山から撮影
 
矢野中学校から見る矢野三山 ( 絵下頭絵下山、発喜山、明神山 )    たんけんマップから 
眺め     絵下山から見る 広島方面の風景        たんけんマップから 
 

 矢野の歴史
 矢野を中心に安芸郡坂町、呉市天応、押込地区、熊野町の川角、平谷地区ま含めて養隈やの)と呼ばれていた。縄文時代の早期には人が暮らし、矢野小学校の校庭から縄文土器や弥生土器、石釜などが出土している。平安時代、安芸熊谷氏により矢野城が築城され、城下町として発達。また、音戸の瀬戸を開いた平清盛の厳島への航路に近く、広島湾から更に矢野浦としても発達した。
 1335年、熊谷氏は落城し、熊谷蓮覚の死後の詳細については不明であるが、約100年後、文安2年(1445年)足利よ義政により所領を与えられて尾張国野間荘より野間重能が矢野城に入り、近隣の平賀氏や小早川氏と争いを繰り返し勢力を拡大した。
 この地域を109年間 野間一族が治めたが、1554年9月7日毛利元就矢野城を総攻撃。野間氏一族は虐殺され、このとき矢野城も廃城になったと推測される。
 この矢野城攻防の悲惨さを語る3代目 野間隆実の「
野間火」は、永く里人の語り草となっている。
  ※野間隆実は毛利元就の謀略におち、非業の最後を遂げ 「野間火」という火の玉伝説となって残っている。 

 江戸時代、矢野は漁船溜り・商港として栄え、明治時代に入ると、1870年、矢野の長慶寺に「啓迪舎」が開設され、広島県下小学校のさきがけとなった。

 1903年、官設鉄道の海田市駅-呉駅間開業により矢野駅設置。1935年、矢野新開先を埋め立て、大日本帝国軍の基地となる。
 1945年8月6日、広島市中心部に原子爆弾が投下されるも、矢野地区と広島都心(爆心地)との間には距離があり、爆風被害がほとんどなかった。

 1975年、広島市に編入合併。                矢野町史&Wikipedia 参考

                                 

 
 
STS(里山探検整備隊)  
海田
矢野
2
1
熊野
明神山
3
絵下山
発喜山
絵下頭
東ピーク
西ピーク
焼山
天応
安浦
吉浦
発喜山
絵下頭
中野山
絵下山
江田島
竜山(竜ノ口山)
広島市街
音戸