| 呉市(苗代)に連郭式山城が! |
![]() (上図大〇は 野間氏の勢力地域) 掃部城は野間重能が1445年矢野荘に入国後、 苗代、栃原、焼山、押込等を領有…その後 山の備えとして掃部城(連郭式山城)ができる |

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| 苗代(南) から見た 連郭式山城(焼山アルプスと呼ばれている) 呉市苗代交差点(コンビニ付近)から撮影 | |
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| 押込本庄水源地側(北) から見た 連郭式山城 中倉山中腹から撮影 | |
呉市苗代地区から熊野町に沿って南北に延びる山並み(連郭式山城)を地元では焼山アルプスと呼ばれ尾根には巨岩や奇岩が多く、周囲の街並みや山々の眺望が楽しめます。 戦国時代この一帯を領土とした野間一族の山城跡や巨岩の下にたたずむ「くぬき(苦抜き)観音」など歴史ある山々です。 中国新聞 (ちゅうごく山歩き 平成30年2月4日掲載) |
矢野城)
| 野間氏の 山の備え 連郭式山城について noma |
| 連郭式山城(掃部城山 , しし岩, 狐ヶ城, 観音山, 三石山) (焼山アルプスとも呼ばれてる) |
| 野間重能(のましげよし)は文安2年(1445年)足利義政から矢野荘を与えられ地頭職として 入国し、矢野の保木城(矢野城)に居を構えて苗代、栃原、焼山、押込等を領有していた。 野間興勝の時代になって東方からの勢力に対して掃部城を作ったといわれている。 掃部城山の頂 (421m) は二の丸…その東麓のこんもり繁った小山(311m)に本丸がありま した。(現在も広場が残っています) 掃部城山頂上の二の丸から、しし岩を経て、狐ガ城。めおと岩、観音山、三石山(のうそ山) へと尾根伝いに櫓(やぐら)を配置し、連郭式山城構築されていた。 本丸の西に幅30mの谷、東に焼野川(二河川の上流)があり、守りに適した山城と伝えられて います。 野間隆則の時代になって、興勝の没後9年後(1555年)に野間氏は毛利氏に滅ぼされている。 (昭和東公民館所蔵本から) |
| 初代 : 野間重能(しげよし) 文安2年(1445年)足利義政から矢野荘を与えられ地頭職として入国し、 矢野城(保木城)に居を構えた。 二代 : 野間興勝(おきかつ) 文明2年(1470年)尾張国から養子として入り野間氏の全盛時代を出現させる。 このとき掃部城を構築し、東方にも勢力を拡大したことが伺えます。 また「連歌会」が行われており(永正13年夏)、興勝は文芸との関わりが深かったとも 言われている。天文14年(1546年)83歳でこの地に没する。 三代 : 野間隆則(たかのり) 隆実(のま たかざね)とも言われている 興勝の死後9年(1555年)で野間隆則は毛利元就に滅ぼされる。 呉市天応に「野間刑部太夫隆則墳 天文二十三年甲寅九年二十五日」と刻まれた墓や 野間隆則が切腹したといわれる「腹切り岩」がある。 野間氏が支配した1445年から1555年は室町幕府の末期の不安定な時代で中小豪族は 単独では生きられず、合併するか強い勢力に吸収されるという疑心暗鬼の時代だったと 思われる。 このような環境の中で備えを強固にするため海の備えは保木城(矢野城)を中心に・・・ 山の備えは裏座敷に当たる)掃部城山の連郭式山城だったのである。 野間興勝が山口の大内氏と和睦していたころは毛利とも同輩の間柄であり相互の均衡を 保っていたが、1543年頃から大内氏、尼子氏の安芸国における影響力が低下してゆき、 だんだん毛利は領土を広げ、各地で争いが起こっていた。 また1553年に大内家の実権を握った陶晴賢(すえはるかた)と毛利が対立に至っていた ことなど時代は動いていた。 この頃の野間氏は矢野を中心に水軍基地を持っていたが、中立的な立場を保って いたため、両陣営(毛利、陶)にとって重要な関心ごとであったと言える。 ところが野間氏は毛利元就が陶晴賢と断交するに及んで毛利氏と絶ち陶氏に味方 したのである。 毛利にとっては野間の保木城(矢野城)を放置しておくことはできないことになり、 天文24年(1555年)4月9日に約3500の軍勢を率いて攻略・・・ 同年4月11日に 野間隆則は降伏した。 毛利にとっては厳島決戦を前にした生死の瀬戸際であり、やむなくとった措置だったと 言われているが、野間一族は皆殺しにされ文献、記録などはほとんど残っていないと いう。 。 (昭和東公民館所蔵本) これから半年後(1555年)10月16日に厳島決戦で毛利元就軍が陶晴賢軍に大勝したの である。 掃部城が落城したときに「狐ケ城」の麓に財宝を埋めたという伝説があって、目印は 「白南天の古木」というが、今もって見つかっていない。 「矢野町史」の「野間城をめぐる伝説」の中に「朝日照り夕日輝くその下に 黄金万両後の世のためという歌が謡われたそうだが次第に忘れられてきた。 しかし今でも白南天の下の壷に埋められているという」と書いてある。 (昭和東公民館所蔵本から) 野間掃部の館や矢場のあった辺り(苗代)に「手まり歌」が残っているという。 「お逮夜(たんや)がござった。掃部城の岡から弓をさげて矢をさげて、てんまる (手まり)つくつくごおざった。」 お逮夜とは仏様の命日の前夜である。毛利勢に滅ぼされた掃部山城の人々への悲しい 回向の弔い歌か・・・女の子が「手まり」をつくときは時折歌っていた(いる)という。 (昭和東公民館所蔵本 から) 野間一族の墓か・・・武将の墓としては哀れであるが恐らく鎌倉、室町時代の形式を 保っているので野間一族のものであることは推定できる。(昭和東公民館所蔵本から) (本丸近くの民家敷地内に祀られている) ![]() 見どころ (^^♪ 民家敷地内に祀れれている「五輪の塔」 (呉市有形文化財平成7.3.10) 本庄水源地から北西の方向に,昔 ながらの鎮守の森の中にあります。 この森の中心に鎮座する向日原神社は,江戸時代に建てられた 呉市で最も古い木造建築物の一つです。 矢野の城主・野間興勝が,永正11年(1514年)に造り,寛文12年 (1672年)に今の場所へ移築されました。現存する本殿は,移築の時 建てられ本殿とつながっている拝殿と幣殿は,安永2年(1772年)に 再建されたと伝えられています。 平成7年(1995年)秋から9年(1997年)春にかけて「平成の大修復」 がおこなわれました。 (呉市ホームページ参考) マミガ城山は、野間時代の城壁網であったとみられている。 矢野町発刊 「発喜のしおり」 参考 |
| STS(里山探検整備隊) |