茶臼山(吉浦) (ちゃうすやま)  広島県呉市吉浦町
 標高282m 
 位置→ くれ西方の山々11
 
 茶臼山 ( 前方は吉浦町、左の山は 佐伯権現山 )    吉浦八幡神社の参道から撮影
 
 海から見る 吉浦町の風景 (手前が茶臼山です) 
頂上の表示板  茶臼山の頂上  

 天分24(1555)年、矢野城
(保木城ともいう)(城主野間隆実)は毛利元就に攻撃され,落城した。茶臼山城主末永弥六左衛門隆道は,志蕗山城を開城。吉浦は小早川隆景の地行地(ちぎょうち)となった。(小早川氏は吉浦の水軍が欲しかったのであろう。)  (呉市ホームページ参考)

  地行地とは : 封建的な主従関係成立の要件として権力者が服従者に分封した土地。とくに、江戸時代
   大名が家臣に与えた土地をいう。

 
眺め  頂上からの風景は南西方向に吉浦の街並みと広島方面が見られる。 頂上から撮影

 茶臼城(天神堂)
  安芸熊谷氏の一族である熊谷蓮覚によって広島湾東岸にそびえる絵下山山頂から北へ延びる丘稜尾根上に、構築された山城である。城の北側が大手口で、矢野川により形成された谷となっている。南は絵下山を後方の守りとして、西側には明神山の尾根に続く茶臼山があり、搦手として機能している。元々この地域は後醍醐天皇との関係が深い荘園地で、山陽道にも近く、広島湾にいる船の動きを監視できる要地であったため、この場所に築城されたと考えられる。

 高尾山(標高233m)は、山頂のおよそ中央が坂町と矢野町 の境界になっている。昔から坂では「天神堂 」、矢野では「茶臼城」 と愛称された山城で、荘園時代、矢野郷の惣公文
(そうくもん)中原惟道(なかはらこれみち)こと矢野氏が築城したという説がある。 南北朝時代の初期、建武2年(1335)年12月、足利尊氏(あしかがたかうじ)方に味方した安芸の守護職武田信武(たけだのぶたけ) (銀山城主)に抗し、矢野城にたてこもった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)方の熊谷直行四郎(くまがいなおゆきしろう) 入道蓮覚(にゅうどうれんがく) は、この山を支城 として用いたが落城した。 その後、室町時代には、野間氏が地頭職として矢野郷に入部してきた といわれる。文明2年(1470年、ここ高尾山を居城とした野間興勝(のまおきかつ)は安芸国有力国衆として名を挙げ、周防国で絶大な勢力であった大内 氏の信頼を得ていた。天文20年(1551)、陶晴賢(すえはるたか)大内義隆(おおうちよしたか)への謀反以後、陶氏方の立場をとる野間氏と、陶氏討伐の意を決 する毛利元就(もうりもとなり)との関係に暗雲が立ち込める。天文24年(1555) 4月11日、野間隆則 (のまたかのり)の時代、毛利勢の大軍に攻められ落城した。この戦は矢野要害全体の運命を決するものであった。 この城は、典型的な山城で、現在でも遺構は完存し往時がしのばれ る。山頂の平坦地は本丸で、下方の北と西南に出丸をもつ複連郭型の 丘陵山城である。本丸の北寄りに井戸跡、馬返しより矢野側に下ると 補給源の泉があり、お馬屋敷の伝承がある。丘陵を北に下ると牛の首 岬の船着場へつづく。また、西方の遠見城(西側の山)とは、連絡が とれ、水軍の頭領だった野間氏にとっては矢野城の眼ともいえる海上 監視の役割をもっていた。
                       坂 町 教 育 委 員 会 矢野史跡顕彰・発喜会
 
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