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| 野間氏の連郭式山城 通称「焼山アルプス」 |
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| この5連山が野間氏の「連郭式山城(れんかくしきやましろ)」です (苗代から撮影・・・ ) |
| クリック→ 野間興勝 矢野城(保木城) |
| 野間重能(のましげよし)は文安2年(1445年)足利義政から矢野荘を与えられ 地頭職として入国し、矢野の保木城(矢野城)に居を構えて苗代、栃原、 焼山、押込等を領有していた。、野間興勝の時代になって東方からの勢力に 対して掃部城を作ったといわれている。 掃部城山の頂上 (421m) は二の丸で、その東麓のこんもり繁った小山 (311m) に本丸がありました。 掃部城山頂上の二の丸から、しし岩を経て、狐ガ城。めおと岩、観音山、 三石山(のうそ山)へと尾根伝いに櫓(やぐら)を配置し、連郭式山城が 構築されていた。 本丸の西に幅30mの谷、東に焼野川(二河川の上流)があり、守りに適した 山城と伝えられています。 野間隆則の時代になって、興勝の没後9年後(1555年)に野間氏は毛利氏に 滅ぼされている。(昭和東公民館所蔵本から) |
| 初代 : 野間重能(しげよし) 文安2年(1445年)足利義政から矢野荘を与えられ地頭職として入国し、 保木城(矢野城)に居を構えた。 二代 : 野間興勝(おきかつ) 文明2年(1470年)尾張国から養子として入り野間氏の全盛時代を出現 させる。このとき掃部城を構築し、東方にも勢力を拡大したことが伺える。 また「連歌会」が行われており(永正13年夏)、興勝は文芸との関わりが 深かったとも言われている。 天文14年(1546年)83歳でこの地に没する。 三代 : 野間隆則(たかのり) 隆実(のま たかざね)とも言われている 興勝の死後9年(1555年)で野間隆則は毛利元就に滅ぼされる。 呉市天応に「野間刑部太夫隆則墳 天文二十三年甲寅九年二十五日」 と刻まれた墓や、野間隆則が切腹したといわれる「腹切り岩」がある。 野間氏が支配した1445年から1555年は室町幕府の末期の不安定な時代 で中小豪族は単独では生きられず、合併するか強い勢力に吸収されるという 疑心暗鬼の時代だったと思われる。 このような環境の中で備えを強固にするため海の備えは保木城(矢野城)を 中心に・・・山の備えは裏座敷に当たる)掃部城山の連郭式山城だったので ある。 野間興勝が山口の大内氏と和睦していたころは毛利とも同輩の間柄であり 相互の均衡を保っていたが、1543年頃から大内氏、尼子氏の安芸国に おける影響力が低下してゆき、だんだん毛利は領土を広げ、各地で争いが 起こっていた。 また1553年に大内家の実権を握った陶晴賢(すえはるかた)と毛利が対立に 至っていたことなど時代は動いていた。 この頃の野間氏は矢野を中心に水軍基地を持っていたが、中立的な 立場を保っていたため、両陣営(毛利、陶)にとって重要な関心ごとで あったと言える。 ところが野間氏は毛利元就が陶晴賢と断交するに及んで毛利氏と絶ち 陶氏に味方したのである。 毛利にとっては野間の保木城(矢野城)を放置しておくことはできない ことになり、天文24年(1555年)4月9日に約3500の軍勢を率いて 攻略・・・ 同年4月11日に野間隆則は降伏した。 毛利にとっては厳島決戦を前にした生死の瀬戸際であり、やむなくとった 措置だったと言われているが、野間一族は皆殺しにされ文献、記録などは ほとんど残っていないという。(昭和東公民館所蔵本) これから半年後(1555年)10月16日に厳島決戦で毛利元就軍が陶晴賢軍 に大勝したのである。 掃部城が落城したときに「狐ケ城」の麓に財宝を埋めたという伝説がある。 目印は「白南天の古木」というが、今もって見つかっていない。 「矢野町史」の「野間城をめぐる伝説」の中に「朝日照り夕日輝くその下 に黄金万両後の世のためという歌が謡われたそうだが次第に忘れられ てきた。 しかし今でも白南天の下の壷に埋められてあるという」と書いている。 (昭和東公民館所蔵本から) 野間掃部の館や矢場のあった辺り(苗代)に「手まり歌」が残っているという。 「お逮夜(たんや)がござった。掃部城の岡から弓をさげて矢をさげて、 てんまる(手まり)つくつくごおざった。」 お逮夜とは仏様の命日の前夜である。毛利勢に滅ぼされた掃部山城の 人々への悲しい回向の弔い歌か・・・女の子が「手まり」をつくときは時折歌って いた(いる)という。(昭和東公民館所蔵本から) 野間一族の墓か・・・武将の墓としては哀れであるが恐らく鎌倉、室町時代 の形式を保っているので野間一族のものであることは推定できる。 (昭和東公民館所蔵本から) 本丸近くの民家の敷地内に祀られている。 |
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| 掃部城本丸近くにある民家敷地内の「五輪の塔」 |
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| (呉市有形文化財平成7.3.10) 本庄水源地から北西の方向に,昔 ながらの鎮守の森があります。 この森の中心に鎮座する向日原神社は,江戸時代に建てられた 呉市で最も古い木造建築物の一つです。 矢野の城主・野間興勝が,永正11年(1514年)に造り,寛文12年 (1672年)に今の場所へ移築されました。現存する本殿は,移築の時 建てられ本殿とつながっている拝殿と幣殿は,安永2年(1772年)に 再建されたと伝えられています。 平成7年(1995年)秋から9年(1997年)春にかけて「平成の大修復」 がおこなわれました。 (呉市ホームページ参考) |
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| マミガ城山は、野間時代の城壁網であったとみられている。 |
| STS(里山探検整備隊) |
呉(苗代)に山城が!(掃部城山)
至広島
栃原
▲一ノ松光山
かもんじょう
▲絵下山

海田湾

矢野町
苗代に「野間興勝の山城」
それは 掃部城の連郭式山城です
連郭式山城
★天応駅
二河川
至広
至呉
掃部城山 ⇔ しし岩 ⇔ 狐ケ城 ⇔ 観音山 ⇔ 三石山 の5連山は
室町幕府末期、野間氏の連郭式山城でした。
今は「焼山アルプス」として身近な登山コースになって
います。
二艘木
▲天狗岩
▲石山

★小屋浦駅
焼山公園
しし岩
狐ケ城山
郷原CC
・深山の滝
▲岩山
掃部城山
▲しし岩
▲狐ガ城
★水尻駅
本庄水源地
▲三石山(のうそ山)
★呉ポートピア駅
堀超峠
観音山
焼山
三石山
黒瀬
苗代
コンビニ(苗代店)
(のうそ山)
▲掃部城山